備中妹尾 字観音寺
跡不見観音堂鎮座 御洗水観世音菩薩 縁起
奈良時代の西暦700年頃、元明天皇(女性天皇 在位 707年慶運4年~715年和銅8年 平城京遷都 古事記の成立 風土記編纂の詔勅 和銅開寶の鋳造実績など)から下賜された聖徳太子作と伝わる観音像を祀る一宇の堂が起源。当時船着き場だったところに建てられた。
その後、1170年頃、源平の合戦で活躍した平家の武将である妹尾兼康によって跡不見観音像を本尊とする備中妹尾観音寺が、和田大坊に作られた。当初は真言宗の寺であった。
江戸時代以降は、1600年頃より領主となった戸川達安の宗教政策の影響を受けて、和田家の敷地内に移設し、祀られていた。しかし天保年間に起きた、最初の妹尾郷百姓一揆の後に、和田家が祀ることが出来なくなる事情が生じ、信仰の特に篤かった光吉家が、その祭礼を引き継いでいる。
1. 妹尾に関する歴史伝承は、温羅神社の末社である十柱神社の祭神
「和田叔奈麿」
「山田日芸丸」
「栗坂豊玉臣」の記載が最も古い。
吉備津彦の温羅征伐よりもさらに古い時代の名残を今に残しているものと解釈できる。
この十柱神社の祭神は、
① 「吉備海部直祖(神武天皇の参謀で、ヤマトの初代国造である「さおねつひこ」に推定)」
それぞれの名前から分析、推定すると、笹ヶ瀬川(遡ると足守川)流域および朝鮮航路、播磨、ヤマトを結ぶ海路沿いを拠点とする人物と予測される。
この十柱のうち、「和田叔奈麿」「山田日芸丸」「栗坂富玉臣」の三柱は、笹ヶ瀬川下流の西岸に位置する。この時代には、「妹尾」「瀬尾」の地名は無く、「和田」「山田」「栗坂」が当時に使われていた地名であることが忍ばれる。
2. 次に古い伝承は、栗村神社(和田の宮)と御前神社(西ノ宮)である。この神社の縁起では、和田の漁民が、いせさり彦(吉備津彦)の海難救助を行ったことが、亀の逸話を通して語られる。また、いせさりひこ共に和田叔奈麿と栗坂鴫名が早島箕島の海賊を討ち果たしたという伝承が、それぞれの神社に伝承されている。
実際に児島湾の北側、早島沿岸までの漁業権は妹尾漁民が独占していた。また、その代償として、児島湾の北側の海難救助を担い、それが江戸時代末期、児島湾埋め立てまで続いた。
3. 西暦708年頃、元明天皇の時代。筑紫の貢ぎ船の海難救助を行い、元明天皇から聖徳太子作の観音像が、妹尾に贈られる。跡不見観音堂として、一宇の堂に祀られる。妹尾の漁業権が認められている証拠であり、海難救助の義務を負う証拠でもある。
4. 妹尾兼康が、観音像を本尊として和田大坊に巨大な寺院を建設し、観音寺と号した。すでに海ではなくなったため、跡不見観音は、御洗水観世音と呼ばれた。
5. 平氏滅亡後、鎌倉時代になり、戦乱が終わると、後世に伝承を残すために1192年に観音寺の縁起が作られる。
6. その後、観音像は和田家により保存され、観音寺は再興と衰退を繰り返す。
7. 豊臣秀吉の天下統一により、上寺に真言宗観音寺が再興される。
8. 徳川家の天下となり、戸川達安が領主となる。真言宗から日蓮宗に改宗。
9. 戸川統治時代に、「観音寺」は、上寺から、現「観音寺」に移転。和田家が敷地内に祀っていた『観音像本尊』はその後、光吉家が引き継ぎ祀ることとなる。
■『石上の「御洗水観音の化佛尊像」』
➡「聖徳太子作 観音像」足跡(概略)
➡観音寺「観音像」
➡大坊 「観音像」
➡上寺 「観音像」
➡観音寺「観音像」 現在に至る
➡光吉家「分身像」(光吉家邸内の堂宇「木造観音尊像」) 現在に至る
和田の宮の祭神、和田叔奈麿の男系を神代から守っていた家系。江戸時代末期までは、妹尾には「和田家は一軒のみしか存在しない」という決まりが存在した。次男、三男は、他家に養子になるか、観行院、善立院の僧侶になった。
和田叔奈麿の末裔の存在は、妹尾漁民の漁業権を守るために、妹尾にとって必要不可欠だった。児島湾の澪(浅瀬の海の中にあり、船が通るための水深が深くなっている水路)を境に、笹ケ瀬川から西、早島までが、妹尾漁民の独占的な漁場として、それぞれの時代の為政者から認められていた。
その根拠が
1. 吉備津彦の海難救助を行った証拠となる御崎神社(西の宮)2. 筑紫の貢ぎ船を守り元明天皇から下賜された聖徳太子作の観音像と跡不見観音堂3. 吉備津彦とその妻を饗応した和田叔奈麿と竹丘姫(たけすなひめ)の屋敷跡である和田の宮である。妹尾漁民は、和田家を代表として、児島湾の北側の海上の安全を守り、事故や災害時には救援活動の責任を負う。その見返りとして、早島までの漁業権を保障されてきた。
まだ、戦国時代末期、のちの妹尾領主となる戸川達安(1567年生まれ)は、自身が9歳の頃に、父親が妹尾の児島湾をはさんで対岸に位置する常山城主として赴任した。その当時は、常山城主戸川家と妹尾漁民は、同じ毛利家の支配地域だった。当然交流もあっただろうし、救助活動の合同訓練も行っていたかもしれない。しかし、その3年後には、戸川家の主君である宇喜多氏が毛利側から織田信長に寝返った。そのために、常山城主戸川達安と妹尾漁民たちは、一転、敵同士の関係になってしまった。
また、豊臣秀吉の備中高松城の水攻めを記録した古文書である「備中兵乱記」によれば、備中高松城を守る最前線の兵士の中に、「和田三郎兵衛」の名前があり、観行院の過去帳には「和田」の人物は全て「同前」の屋号で記録されている。「和田家」以外にも「同前」の屋号を使う家系が存在しているが、備中兵乱記によると、すべて戸川達安と戦った和田三郎兵衛と同じ部隊の兵士名と一致し妹尾和田家の人物と推定される。また、この時に局地戦で実際に刃を交わした相手は、のちの妹尾領主となる16歳の戸川達安だった。
この「備中兵乱記」によれば、和田三郎兵衛の部隊は、戸川達安を退却させたと記録が残っている。
江戸時代になると、土砂の堆積により、児島が倉敷と陸続きとなり、半島となった。
また、児島湾は新田開発の対象となり、埋め立て事業の計画が幾度もたてられることになっていく。
和田家と妹尾漁民は、江戸幕府に仲裁を求めて、繰り返して訴訟することで、漁場の埋め立に抵抗していた。100年余りも、妹尾漁民は児島湾埋め立てに抵抗していたが、それまでにも土砂の流入などで、自然と海は浅くなっていた。幕末になり、とうとう児島湾の本格的な埋め立てが始まり、妹尾から海は消えることとなった。
妹尾から海が姿を消し、妹尾漁民が海難事故の救援義務も無くなることで、和田家の歴史的な役割が、小さくなっていく。そして、黒船来航、開港と時代は変化して行く。
江戸時代、妹尾は旗本戸川家の支配下にあった。旗本とは、徳川将軍家の直属の武士である。出世をするためには、戦時であれば手柄をあげる必要があるが、平和な時代では、多額のわいろや寄付金を用意する必要があった。幕末に黒船が来航して、江戸幕府に開国を迫ったとき、多くの武士は討幕の動きをみせた。逆に旗本たちの出世競争は以前よりも熾烈さが弱まり、かつては手の届かなかった高い地位が、頑張れば手に入るかもしれない。そう感じさせるような状況になっていた。
妹尾戸川家6代目の戸川達本(助次郎)の幕末の時代には、全国的に財政が厳しく、領民への負担が大きくなった。国許の妹尾の財政を圧迫した。結果的に台所を預かる松田源之亟が辞職して、足軽が御用商人を狙撃未遂する事件に発展した。また、その数年後には、妹尾在地の代官が、不可解な増税を、繰り返し領民に求めるようになっていく。
背景として、戸川達本の幕府内での出世(安政2年小普請組支配・位も安政6年位従五位下にあがり衣装が変わり、近江の守と名乗り称す)の資金調達。役人としての役目を忠実に果たそうとすれば、領民への負担が厳しくなるのはやむ得ないことであり無理をして資金を集めたと考えられる。
妹尾漁民は一計を案じた。吉備津彦の時代より、児島湾の安全を守り、また戦国時代には戸川達安を撃退した妹尾漁民たちが、自分たちのために再興したのが、観行院である。その、観行院(鬼子母神堂)が一揆の作戦の場所となった。
「妹尾郷百姓一揆」と呼ばれたこの事件は、事実上、妹尾の支配者が「戸川達本」から「和田源治兵衛」に交代する出来事となった。
幕府内での出世を目指して、どうしても軍資金の欲しい妹尾領主戸川達本に対して、海運業で大きな富を築いた嶌屋源治兵衛(のちの和田源治兵衛)を仲介するために、この「妹尾郷百姓一揆」は計画実行され、見事に成功した。
欧米から開国を迫られ、対応に苦慮する江戸幕府に対して、早くから見切りをつけて、独自の路線を模索する、先見の明をもつ大名や旗本も存在した。しかし、幕府内での出世にこだわり、出世に必要な資金を得るために、無理な課税を繰り返す旗本も存在した。
妹尾領主の戸川(達本)助次郎もその一人だった。
戸川助次郎の治政に対して、妹尾漁民たちは、主に観行院(鬼子母神堂)にて法事を装い、対策を相談しあった。
実際に行われた一揆を時系列で整理すると、
1. まずは、繰り返す重税が納められないので、やむを得ず他領に出稼ぎに行く必要があると、大人数で関所に押しかける。
もちろん、この代官の屋吹氏も一揆の指導者の一人である。
密談の舞台になった観行院には屋吹氏の寄贈した、石灯篭(鬼子母神堂に向かって左)と、鬼子母神堂(明和2年。佐藤又兵衛他50名寄進)が存在する。観行院の有力な支援者である屋吹氏に知られずに、観行院で密談を行うことは不可能である。
4. この妹尾領民による越訴の件を、屋吹氏が江戸の領主に報告するために妹尾を出発するタイミングで、屋吹家と他数件の屋敷を、大人数で打ち壊す。鎮圧のための部隊が到着するまえに、一揆は解散する。
全ては、領主戸川助次郎とある人物を代官の屋吹氏が仲介することが、一揆の真の目的だった。
その真実の作戦を、順を追って整理すると、
1. 重税を納める資金を稼ぐために他領に押しかけて騒動を起こす。
観行院の檀家であり、海運業で莫大な利益を上げて富を築いた嶌屋源治兵衛という人物がいた。それまでは、名字帯刀を許されていなかったが、妹尾郷百姓一揆の後に、嶌屋源治兵衛は妹尾大庄屋となり、和田源治兵衛と名前を改称した。状況から考えると、名字は領主が与えたもの。【源「治」兵衛】から【源「次」兵衛】に変わったのは、領主戸川助次郎から、「次」の字を許されたと考えて間違いない。
そして、同時期に戸川助次郎は幕府内で異例の出世を遂げた。
妹尾郷百姓一揆を伝える資料にも、一揆の後に、領主が処分を受けることがあっても、逆にどんどん出世するのはかなり不自然であり不思議なことだと指摘されている。
この戸川助次郎は、嶌屋源治兵衛が和田源治兵衛以に名前が変わったことと、表裏一体であり、和田源治兵衛が、戸川助次郎の幕府内での出世に必要な資金を1人で調達した証拠だと言える。
この和田源治兵衛は、結果的に妹尾領民を重税から救い、また領主の幕府内での出世を実現し、また海の埋め立てによって仕事を失った領民たちの働く場所を新たに提供した。その後、戸川助次郎の近習医師にとりたてられている。その子孫も代々和田の名を継承している。
事実上、戸川助次郎から、和田源治(次)兵衛に妹尾の支配者が交代した出来事となった。戸川助次郎の墓所は盛隆寺に、和田源治(次)兵衛の墓地は観行院に現存する。
嶌屋源治兵衛が同前の屋号を使って和田を名乗り、網本の権利を継承、観行院の運営も引き継いだ。その際に、それまで和田家の敷地内に祀られていた跡不見観音像は、特に信仰の篤かった光吉家が引き継いでいる。光吉家は私財を投じて観音堂を整備して、今に残っている。
また、光吉家が保管する江戸時代の文書には、妹尾漁民が児島湾の北側、早島までの漁場を独占する漁業権を有し、また古来より海の安全を守ってきたことを示す内容が記載されている。
妹尾の歴史的な名前のルール
和田➡同前(隠し名)➡和田。和田を名乗るためには、同前からでないと正当性を欠くことになる。
観行院の墓地にある、同前久治郎の墓碑は「道善久治郎」となっていて、「同前」ではない。道善は、「みちよし」とも読め、「光吉(みつよし)」とほとんど聞き分けるのが難しい。筑紫の那珂川には、かつては「道善寺(どうぜんじ)」の地名が現存した。
同前久治郎 が明和3年(1763)没。と同時期に「光吉家 妹尾移住後 初代」が、宝暦元年(1751)に没している。以上から鑑みると、同前家と光吉家は、何らかの親交があったのではないかと思われる。が、同前久次郎の墓碑名を、道善とした事は不明である。
跡不見観音の地形は、明らかな船着き場になっているが、本格的な土木工事を行ったとしか考えらない。このような工事を行うためには、石器や木でできた道具では不可能といえる。日本列島に鉄器が持ち込まれたのは、弥生時代である。
笹ヶ瀬川上流の足守川流域には、古代より製鉄が栄えた地域でもあった。
足守川上流の製鉄集団が、自分たちの海路の重要な拠点となる河口付近には、特に手厚い整備を行ったことは、間違いない。
そして、まさにそれが跡不見観音であり、また現在に残る、当時の船着場と考えられる観音寺池の地形である。
吉備津彦の上陸した場所だと伝承される「高尾山(明神バナ 明神山)」は、宅地工事で消滅したと「妹尾町の歴史」に記載がある。この「明神バナ」は、跡不見観音の池の北側あたりと推定される。すでにこの時代には、跡不見観音の近隣が、吉備中山に向かう海上交通の要所であったことが推定される。
また、御洗水観音縁起によると、この地帯は、建久3年(1192)には海でなくなり、池になっていたとの記載が見られる。このころには、気候の変動によって、海岸線は、かなり南、おそらく盛隆寺あたりに移動していたと推定される。
それらを含めて考えると、この跡不見観音が船の停泊所として機能したのは、早ければ、鉄器が日本に持ち込まれた弥生時代、紀元前200年頃から、遅くても妹尾兼康の時代の1100年代くらいまで。
筑紫の貢ぎ船を救助したのが元明天皇の奈良時代ということがはっきりしているので、西暦700年頃には、跡不見観音は停泊所として機能していたことになる。
跡不見観音の船着場の工事が行われた時期に関しては、次の5つが候補にあがる。
1. 温羅の時代
候補となる各年代について考察する
1. 温羅の時代温羅の統治下において「和田叔奈麿」の役割は、温羅の居住地である吉備中山に向かう水路である笹ケ瀬川の管理だったと推定される。(当然、本業は漁業である。)
そして、明神山を挟んですぐ北側に広がる山田村と栗坂にも、十柱神社の祀神として「山田日芸丸」と「栗坂豊玉姫」の名前がみられる。
「山田日芸丸」は、その名前から、稲作を笹ケ瀬川西岸で行ったと予想される。山田村は、岡山県内で最も古い時代の稲作の遺跡が存在する場所である。温羅が稲作を吉備に伝えたのだとしたら、山田日芸丸が、はじめに協力して、米つくりをはじめたのかもしれない。「栗坂」に関しては、時代が下がると、吉備津彦の時代に和田叔奈麿と「栗坂鴫名」が協力して早島の勢力と戦う逸話が残されている。
温羅が鉄器を持ち込んで、叔奈麿や日芸丸とみんなで土木工事をして、出来たのが、跡不見観音の船着場かもしれない。
もしそうだとすれば、妹尾に跡不見観音停泊所ができたから、笹ヶ瀬川上流の足守川流域に温羅が拠点を作ることができたといえるのかも知れない。
もちろん、吉備津彦が居住したのも、温羅と同じく吉備中山と考えられるので、海路から吉備の首都に向かう重要な港として、跡不見観音は機能していたはずである。
筑紫から、仁徳朝のあった大阪難波までは、妹尾和田よりも、児島を利用したほうが、早く到達できるはずである。
しかし、悪天候では、浅瀬でしかも春辺山と明神山にはさまれた跡不見観音は、停泊所、避難所としてかなり有効な港と言える。
筑紫と大和を結ぶ海路としては、児島が重要な拠点であったことは間違いない。蘇我氏と聖徳太子の時代には、遣隋使が行われており、大型船の航路が重要視されたと予測される。そのため、浅瀬の児島湾の航路は比較的重要視されていなかった可能性がある。
この時代に、日本各地に仏教が広まり、同時に文字が普及したと考えられている。「うら」に、「温羅」の漢字があてられたのは、この時代のことだと考えられる。
実際に古老の間で跡不見観音の逸話が残されていることから、悪天候の際の避難所としては大変重要な役割を果たしていたことが証明されている。
ときには、博多から天皇への荷物を運ぶ船の危機を助けたことがあったということである。これは、たまたま通りかかった際に起きた偶然のことではなく、常日頃、妹尾の住民は児島湾の海上交通の安全を守り続けてきたからである。
和田の宮、西ノ宮ともに、妹尾住人が海の事故において人命救助をおこなってきたという伝承であり、またこの跡不見観音の逸話と併せて、すべての伝承は、妹尾住民は有史以来、2000年以上に渡って児島湾の安全を守り続けている証明である。そして、御洗水観音像は、それを後世に伝える証拠の品と言える。
鳴門海峡の海底は中央部が深く、鳴門と淡路の両岸は浅い構造であるため、非常に速い本流と比較的穏やかな両岸付近の流れの境目で本流の流れに巻き込まれる形で渦潮が発生すると言われている。
「妹尾町の歴史」では、「穴の海」と呼ばれる多島海で小さな島々が多くあり、潮の満干には現在の鳴門のような渦を巻いて流れる瀬であった。」と説明されている。また、妹尾町長を歴任した故同前峯雄氏(妹尾を語る会 初代会長)によると、かつては吉備の穴海には鳴門海峡に匹敵する渦潮が発生する交通の難所であり、筑紫からヤマトに抜けるには、筑紫の舟団が、跡不見の渦巻く難所の海域を通行していた」と説明。
また、一説によれば
吉備津神社に行くためには、必ず通過する場所にはなるが、博多からヤマトに向かう場合には、児島の南端を通る航路を選択するのが自然だし、わざわざ春辺山と明神山の隙間を通る必要はない。実際には、悪天候などの際に、博多から難波や大和に向かう瀬戸内海航路の、確実に安全に停泊できる避難所だったと考えられる。平安時代にはすでに海は遠のき、海岸線はさらに南に移動しているので、飛鳥時代や奈良時代においても、潮の満ち引きによっては、船が動かせないくらいに海深が浅くなる時間帯もあったはずである。
滿汐の時にしか、また悪天候で高潮にしか入港できない停泊所であったことが考えられる。だから、満ち潮でしか、出航することができない港。出航では、一目散で船を出す。振り返る暇もないくらい急がなくては、潮が引いて船を動かせなくなる。「あとみず」観音。そうした名前がつけられたのだろうと」の説もある。
妹尾の古老への聞き取りによると、跡不見観音ははるか昔、和田と清水と中島が同じ先祖(同前)を祀るために始めたとの伝承が残されている。
古代の瀬戸内海航路 豊後と備中の関わり
太古より、大分と妹尾には海の交流があり、定期便があっても不自然ではない。
神武天皇の行程は「日向」「宇佐・犬神(光吉家先祖)『宇佐八幡神宮の祭祀の主導権を争った2家』」「安芸」「吉備(妹尾)」「難波」「河内」「大和」
難波との関りは仁徳天皇や、妹尾に多い苗字とされる難波氏の存在で、ある程度伺われる。安芸は、平清盛と妹尾兼康ゆかりの土地。宇佐は光吉家の故郷。光吉家と妹尾のかかわりは元明天皇時代からあっても不思議ではない。聖徳太子作の 観音像を守るために、わざわざ宇佐から妹尾に派遣された可能性も否定できない。また、宇佐地域と妹尾郷の「方言」は似たものが多いことも、推論を発展させる。
御洗水観世音略縁起
沿革
大字妹尾は、都窪郡の東南部に位する一町村で、四国街道に沿うて、小市街をなしている。戸数千数百余、北に二つの小山があり、一つを春辺山一つを明神山(高尾山)と云う、太古は一面海で、この山の間は、非常に狭く、潮の干満の差が甚だしく、海流は矢のように走り、舟人は他を かえり見るいとまもなかったと云う。そこでだれ云うともなく「跡見ずの瀬戸」と名ずけられた。(妹尾町の歴史より)
御洗水観世音略縁起
抑此洗水観世音と申奉るは人皇34代推古天皇の御宇聖徳太子の御作とかや然に此所往古は入海にして跡不見の瀬戸と云ふ西国一の難所なりしが或時筑紫の貢船此所を過しに風波頻りに起って既に覆むとす船中にありあふ人々観世音の法號を唱へて一同に祈誓し奉りけるに此磯に當て岩間より光明赫々として光のみへ侍るを慈佛の御祐助と船を漕ぎよせ皆々危難をのがれ侍る扨後光を尋ね見ゆるに観音の尊像石上に在す舟人奇異の思ひをなし感涙肝に銘じていよいよ信心随喜の思ひをなし本国に取帰り勧請し奉むとせしにいかなる故にやわづかの尊容盤石の如くに重ふして力及ばず其儘此のとこ所に置奉り都に行きて此由を人について時の帝元明天皇に奏聞し奉りけるに此所に一宇の堂を御建立ましまして則ち尊像をうつし奉る其後は海上も穏やかにして難船の煩ひなく諸人歓喜の思ひをなしぬ則ち地名をよびて跡不見の観音と申し奉る夫より星霜へだたりて妹尾太郎兼康と云う武士此所を領せし時一寺を再興して観音寺と號す其頃は入海の所干潟平原の地となり海の形わずかに残りて池となりぬるここを以て世の人御洗水の観世音と申し奉る一たび拝する輩は二世の願望空しからず誠に霊験あらたかなる尊容なりかかる貴き御事も千歳ののち傳へ失む事を嘆き普く衆生を安堵なさしめむ為に其由来を記して後世に伝ふと云ふことしかり
建久3年壬子年(1192年)
備中妹尾観音寺
年間行事(現在)
初観音 1月第3日曜日
夏 祭 7月第3日曜日
其の他の月は 毎月 17日施行します
宜しくお願い申し上げます
各位様
□観音堂の松の上・観音池から竜が天に登った。
□竜が寺を守っている。
□真剣に拝むと鈴の音が聞こえてくる。
□戦時中。戦火の中、観音堂を思い手を合わせると「光明」が射し、その方向に向かうと命が助かった。
□光吉家11代 治五郎時代、自宅と観音堂の往復は、自分の地所のみ通行で事足りた。
■本堂の西側に稲荷堂があり、稲荷堂の西側に供養塔がある。これについて旧妹尾町が発行した『妹尾町の歴史』には、次のように記されている。「長年この瀬戸にて難破し、人命を失った人も多数あるが、その遺体を収容し、その霊を慰めるため無縁仏の五輪塔が稲荷堂の西側に立てられてあったが、永年にわたり、風雨にさらされ破損甚しく、その形を留めない程になっていたので、新しく昭和拾七年に御題目を刻した墓碑を建て、もって、遭難者の冥福を祈っておる。」とある。
昔からの言い伝えでは、「霊を祭る場所」であり元々の「岩の上の観音様」則ち「観音の尊像石上に在」の場所でもある。また、元々の「塔」は、ただの供養塔ではなく風雨に耐え忍んできた風格のある「宝塔」(岩の上の観音様の化仏)との言い伝えもある。
□毎年2月頃(昭和40年ごろまで続いた)
光吉家家族。跡不見観音堂、西側から竹藪を経て山に登る道がある。その道から高尾山の巨石群を通りながら、毎年2月になると、2升の赤飯のオニギリ(一口大より大きめ)の中にアゲとイリボシを入れ、新聞紙にくるみ、ヒモで縛ったものを100個以上作り、歩きながら 山に投げ入れた。「キツネ」「タヌキ」「キジ」などの動物の餌がなくなる時期に「お供え」として野山に供えた。
跡不見観堂の背後にある、高尾山には、数多くの環状列石・岩倉がある。和田の宮の伝承には、吉備津彦時代に今の場所に鎮座したとある。整然とした列石などにより、この場所が和田の宮の元宮の可能性が推察される。
□8月17日(戦前まで)
屋敷内のお堂で「盆踊り」を行った。夜店など出て賑わった。
□11月お講(現在も行っている)
花もちを作り、お供えをする。
妹尾周辺は、宅地開発が進み緑地が減少する中で、跡不見観音寺周辺は貯水池や貴重な森が残っており、多くの野鳥生息地が残っている。
多種の野鳥 マガモ カイツブリ カワセミ シジュウカラ エナガ ヒヨドリ コゲラ等々20種以上の生息が確認できている。季節ごとに、姿を見せる種も変わり、自然の営みを感じられる貴重な場所となっている。人間の残した貴重な歴史遺産だけでなく、自然の営みを感じられる場所を大切に残していくことも私たちの世代の大きな責任である。
確認種類 28種
カワセミ イカル ウグイス シジュウカラ ツグミ エナガ シラサギ アオサギ
マガモ コガモ セグロセキセイ ヒヨドリ カイツブリ ジュウビタキ コゲラ
ゴイサギ ヒバリ シギ ハクセキレイ キセキレイ カヤクグリ ヒガラ モズ
カワラヒワ メボソムシクイ キジバト ハシボソカラス メジロ
光吉家のルーツ
九州大分県10世紀の豊後武士団である「大神氏」から
初代大神氏庶幾の子大神惟基から「阿南」「植田」「大野」「臼井」に分派。
その中の「植田氏」の5代目次男が「光吉」姓を名乗る。 〖大分県の歴史より〗
豊後の当地で、地頭として勢力を揮うのちに、備中妹尾に移りすんだ。
大分には、「光吉」の地名が、存在する。
光吉家初代 峰林院宗栄 宝暦 1751年 〖墓石 位牌から〗
光吉家08代 光吉三四郎
光吉家09代 光吉作次郎 (長男)
光吉家10代 光吉佐太郎
明治11年 観音堂存置願許可 境内坪数 361坪 光吉佐太郎 私有
光吉家11代 光吉治五郎 (次男)
児島野崎家妹尾一円の世話人 8.9町 報酬 1.6石 町会議員
明治27年 邸内の観音堂上棟式
明治28年 観音堂を治五郎名義に所有権登記
明治35年 妹尾小学校建築工事世話人
明治44年 妹尾小学校増築工事世話人
明治44年 「今大久保」として 山陽新聞に記載
本社表彰善行者
宇野線開業時、尽力者として、開業時始発汽車に記念乗車
光吉家12代 光吉寅太郎 (長男)33歳没
光吉家13代 光吉庄造(寅太郎長女一子に清水家より養子)
昭和07年 観音堂の新築を県知事に届出
観音寺落慶法要に稚児行列
昭和13年 光吉家の鎮守として観音堂を妹尾町に届出。
昭和16年 観音堂は盛隆寺に属すると官報に記載
昭和17年 社寺兵事課より観音堂を個人に返戻許可あり
光吉家14代 光吉秀太郎 (長男)妹尾を語る会 会長
洲浜城跡(妹尾太郎兼康居城)復元に尽力
光吉家15代 光吉一雄 (長男)
光吉家16代 光吉正宏
□「今大久保の異名」 明治四拾四年四月参日(月曜日)記事
備中都窪郡妹尾町大字妹尾 篤志家 光吉治五郎 11代 光吉家当主
人若し備中妹尾の旧跡はと問わば必ず先ず妹尾兼康の城址と、建久の昔から今に残存して居る跡不見観音を語る者は、また必ず直ちに妹尾の今覆彦左衛門を連想するであろう今大久保は云うまでもなく今茲に語らんとする光吉治五郎氏其の人の異名である既に此の異名あり人となり推知するに難からざるものではないが、また仝氏のことを観音屋と称して居る這は跡不見観音像の現に光吉治五郎氏が邸内に安置している故で氏の家は古来観音寺に離るべかざる因縁にあり氏の代に至って其の尊像を邸内に移したのである。諺に「人間40歳にして神仏に信仰崇敬の念なきものは其の人必ず軽薄なり」と云って居る然ら氏の為人に見敬神崇佛の篤きに考え諺の人を欺かざるを信じえない氏は嘉永元年3月を以て妹尾町に生まれたるのである資性剛直私欲の如きは薬にしたくも発見することできない。先ず、氏の公的生涯を起さん明治9年用水掛となり翌10年村民総代に選ばれ15年村会議員に当選し17年土木担当委員となり24年郡の米質監査人を嘱託せらる26年衛生掛となり39年妹尾町農業委員となり同年妹尾消防組の組織に当たり其の部長となり同年妹尾箕島を併合して今の妹尾町となるや町会議員となり同年学校建築委員となりて工事を監督した。云々
□「町かどの伝説」 昭和46年8月28日(土曜日)
正式の名は「洗水観世音菩薩」という。百年以上も昔、観音様を盗む者が度々出没したため番人を置いたが、それでも盗みが続いた。菩薩の威光かどうか、或る日、松の上から竜が昇ったのを見た-という人が現れ、その日から盗難がばったりと絶え、竜が寺を守っているいという話がまことしやかに伝えられた。今でも寺の回りの水田を竜がはったあとのような形で稲がたおれていた-という話が残っている。またこの観音を真剣におがむと鈴の音がきこえてくるという。この鈴の音をきいたという信者の一人の会社員同前憲治さん(71)=同市妹尾は=「信仰しだして十年目の三十五、六年だったか、冬のある朝同寺で行をしていたらどこからともなく鈴の音が聞こえた。ことばでは言い表せないようなこうごうしい鈴の音でした。何かかわったことが起こる前は歩いている時でも鈴の音が鳴りしらせてくれました」と後利益を話していた。妹尾地区はその昔、漁師町であったこともあり特に船の安全を祈願する人が多く、更に観音のいわれを伝え聞いた人々など多くの参拝者で、にぎわったという。しかし約三百年前、同地区が干拓され、漁業を営む人も少なくなるにつれ参拝者も減り同寺は荒れる一方となった。この姿を見た同寺近くに住み信仰心の厚かった農業光吉治五郎が私財を出して同寺を改築し管理したといわれる。依頼、これまでの同寺の世話、その他行事いっさい光吉家が管理運営している。「どうして私の先祖が同寺を管理するようになったかはっきりした事情はわかりません。寺周辺の土地を多く持っていた関係かもしれません。今は、個人で寺を持つことは、維持費が大変ですので町内で作っている観音講組合、信者の人たちに協力してもらい管理運営しています」と同市妹尾、会社員光吉秀太郎さん(43)は話している。「船の安全を祈願する人はほとんどなく今では普通の観音様としておまいりする人がほとんどのようですが、それもだんだん少なくしだいに忘れかけられています」と前妹尾教育委員長の福島克己さん(77)は話していた。
□公示 公告
佛堂ノ寺院所属ニ付公告 岡山県都窪郡妹尾町
右佛堂ハ宗教団体法 第三十五条第一項の規定ニ依り岡山県都窪郡妹尾町盛隆寺二属スルコトト相成候條当該佛堂の債権者ニシテ異議アル債権者ハ昭和十六年九月五日迄ニ其旨申出テラレ度此段及広告候也 昭和十六年七月十日 右佛堂管理者 光吉庄造
盛隆寺住職 林 隆哉
□地券 観音寺
備中国都窪郡妹尾町 観音堂 本尊 観世音菩薩
由緒 創立年月日不詳
明治拾吉年弐月五日存置願許可
本堂 梁行 壱間 桁行 壱間
釣屋 梁行 壱間 桁行 八尺
前堂 梁行 弐間 桁行 弐間 昭和7年11月22日改築許可
境内坪数 三百六十一坪 民有地第壱種 光吉佐太郎 私有
信徒 三百人 縣聴距離 弐里弐拾八町
□国幣中社吉備津神社
本殿御屋根替 妹尾町委員ヲ嘱託ス
明治三十五年一月十三日 国幣中社吉備津神社 社務所 社務所印
光吉 治五郎 殿
□跡不見観音寺の石橋
旧戸川陣屋の石橋が、跡不見観音寺の入り口の参道に移設されている。(現在は、アスファルトで覆われている)
元々の石製太鼓橋の橋梁2対の内(約 2尺×4尺)の1対が参道入り口に移設されている。残る1対は、岡山市南区藤田の「興陽高校」に移設されている。
参考資料
日本の旧石器時代
4万年〜3万5千年前、人類集団が初めて日本列島に到達し、定住した。1万件以上という、非常に多くの遺跡が見つかっているが、港川人を除いて、いまだ人骨は発見されていない。
旧石器時代の日本人の特徴
①関東地方に船で上陸した。
②はじめから磨製石器を使用していた。(船を作る道具)
世界で磨製石器がはじめから存在するのはここだけ。
他の地域では打製石器しか、この時代には存在しない。
③村を作るときは、住居を必ず「輪」の形に配置する。
直径数メートルの数件の集落から、直径100メートル以上の数十件の集落まで、この時代は全て「輪」の形に家を配置する。
④サヌカイトや黒曜石などの原産地が限られた原材料が、数百キロの海を渡って、日本各地に流通していた。
⑤2万年前の気候変動やナウマン象の絶滅により、食糧難が訪れる。その際に、5万年前にすでに九州に持ち込まれていた栗を品種改良して、現在も一般的に食されている、日本原産の栽培栗がつくられ、広まった。
縄文時代
およそ1万6千年前にはじまる。
氷河期が終わり、気候が温暖化したことによって、新しい人間集団が、大陸から朝鮮半島を経由して、大量に移住したと考えられる。
その時にはすでに日本列島各地に旧石器時代からの日本人が居住し、また船を使った移動も一般化していたはずなので、新たな縄文人は、朝鮮半島南端から対馬を経由して北九州あたりに移住した可能性が高い。
糸魚川原産の翡翠、琉球地方の宝貝が、中華王朝で高級品として求められたため、交易の輸出品となった。
弥生時代
およそ3千年前、新しい技術である青銅器、鉄器の伝来と普及により始まった。
鉄の原料は日本国内で調達できたが、青銅の原料は、西暦708年の元明天皇の時代に国内の銅鉱山が発見されるまで、全てが輸入に頼っていた。
弥生時代は、国内の戦乱の歴史でもある。この戦乱の原因は全て銅資源の輸入ルートの奪い合いと解釈すれば、歴史の理解が容易くなる。
漢書地理書、後漢書東夷伝に書かれた、中国王朝への倭人の朝貢は、全て銅資源輸入ルート確保が目的である。
①北九州の主導権争い、
②日本海側の主導権争い、
③日本海側と畿内の陸路の主導権争い、
④日本海側と瀬戸内海側の主導権争いで、それぞれの歴史が記録されている。
①北九州の主導権争い
北九州のどの港が銅の水揚げ港になるかで、軍事衝突があったと考えられる。
その証拠になるのが、要塞都市としての機能を持つ、佐賀の吉野ヶ里遺跡である。
結局は、歴史が示すように、博多がこの戦いに勝利する。
②日本海側の主導権争い(主要な輸出品である糸魚川産の翡翠確保の争い)
銅は、銅銭の形で輸入される。
当然、輸出品が必要となる。
主要な輸出品は、糸魚川原産の翡翠である。
その確保は、出雲を支配していた「越」のヤマタの大蛇を、スサノオが退治した物語に伝わっている。
もともと、出雲は「越」の支配地域で、青銅の利権は「越」が独占。(翡翠の産地なので当たり前かもしれない)
スサノオによる越のヤマタノオロチ退治の逸話は、出雲から越の勢力を排除して、出雲の独立を物語っていると解釈できる。
また、スサノオの子孫とされる大国主の時代には、出雲は越を支配下に置き、越のヌナガワ姫を妻とし、糸魚川の翡翠の利権を手に入れた。
その後に、北九州博多の勢力と手を結び、銅資源輸入ルートを掌握。日本の王として大国主は6代にわたり君臨する。
③日本海側と畿内の陸路の支配権争い
播磨国一宮、伊和神社の祭神、伊和大神は、大国主の別名。
出雲から播磨への街道を整備した。
これにより、出雲で陸上げされた銅銭が畿内に容易に持ち込まれる。
畿内での、大国主の別名は事代主(ことしろぬし)。この名前は、代理人という意味にも解釈できる。
出雲から播磨に通じる陸路である出雲街道は、現在も存在している。この出雲街道を整備したことで、大国主は畿内を支配下におくことが可能となった。
しかし、伊和神社の記録によると、新羅から来た王子アメノヒボコが、畿内に拠点をもち、大国主に熾烈な攻撃を行ったとされる。
アメノヒボコは、大国主の作った出雲街道を攻め上がった。出雲のすぐ手前、青谷上寺池遺跡では、一般市民である老若男女が大虐殺された状態で発掘されている。結果的に、大国主は畿内での影響力を失い、最終的には銅鏡を神具とするアマテラスの勢力に、畿内の支配権を譲ることになる。
④瀬戸内海海路と日本海海路の主導権争い
海上貿易の主導権は、かろうじて大国主が保っていたものの、出雲と畿内を結ぶ陸路である出雲街道の支配権はアメノヒボコに奪われていた。
そのとばっちりを受けたのは、播磨以西の瀬戸内海沿岸、太平洋沿岸の地域である。戦争により、銅製品が供給されなくなる。
そこに第3の勢力として、日向のイワレビコが、宇佐、安芸、吉備と戦乱で迷惑を被った瀬戸内海沿岸、太平洋沿岸の地域の勢力を結集して、ヤマトの支配者と戦いに挑むことになった。
イワレビコは各地を南から順番に説得して旅をする。
吉備の高島の宮では、鉄器の安定供給を確保した。
その際の吉備で、神武天皇の現地ガイドをした国津神「さおねつひこ」は、イワレビコのヤマト征討に最後まで付き添い、ヤマトの国の造に任命され、多くの氏族の祖となった。
この「さおねつひこ」は、温羅神社の末社の十柱神社の祭神の1柱でもある。
「さおねつひこ」とは、吉備の速吸門のワダの浦で、神武天皇が船を漕いでいる時に出会った現地の漁師。神武天皇のヤマト平定に随行し、後に大和国造に任命される国津神。
古事記、日本書紀の記載と、岡山県に残る伝承を整理すると、
①神武天皇は、ヤマト平定を目的として、日向、宇佐、安芸を通って吉備に来た。吉備では高島の宮にて8年間かけて兵力を整えた。
②神武天皇が、吉備で船に乗っているとき、
③速吸門という場所の
④ワダの浦という場所で、
⑤ウズヒコという男が亀に乗って
⑥釣りをしていた
⑦神武天皇は、ウズヒコの竿をつかみ、自分の船にウズヒコを乗り込ませた。
⑧神武天皇は、ウズヒコに、「しいねつひこ(日本書紀)」または「さおねつひこ(古事記)」の名前を与えた。
⑨岡山県足守川上流には、神武天皇がタケミカヅチとフツヌシの御旗を見たという史跡が残っている。
⑩その後、神武天皇は、タケミカヅチとフツヌシから、刀剣(おそらく鉄剣)を授かり、また、さおねつひこを参謀として、ヤマト平定を成功させる。
「高島」という地名は、吉備(現在の岡山県)においては、笠岡市と児島湾に現存する。さらに、「高島の宮」と伝承される場所は、西の尾道や、東の播磨にも存在する。
神武天皇が、日向から東に向かって旅をしたことは、確実な事実であり、また吉備を拠点にしたのは、日本書記では3年、古事記では8年とされる。
伝承では、神武天皇は吉備に数年滞在したのだから、尾道、笠岡、児島、播磨にそれぞれ「高島の宮」が複数箇所にあったとしても、不自然ではない。
ここに神武天皇の居住地があったとすれば、神武天皇は普段から船を使って移動していたはずである。
時代背景から考えると、兵士の調達は、日向、宇佐、安芸、吉備、播磨、難波にて行われた。そして、鉄製武器の調達は、吉備にて行ったはずである。
神武天皇の、吉備での滞在期間が長期化した理由は、宇佐と難波の中間地点であること。また、吉備に鉄剣の製作工房があったからだと予想される。
神武天皇は東征の際、日向から難波までを少しずつ移動したというよりは、まずは吉備に拠点を置き、鉄器製造によって軍事力を増強した上で、各地の協力関係を築いたはずである。
高い理想を掲げても、無力であれば誰も協力しようとは思わない。
実際に、宇佐においては、初めは神武天皇は現地勢力に激しい抵抗を受けたと伝承が残されている。(宇佐神宮家、宇佐家伝承より)
まずは、神武天皇は宇佐を素通りして、吉備で軍事力を増強して、説得力を増した後に、改めて、宇佐に協力を求めたという可能性も否定できない。
宇佐家の伝承にも、宇佐のウサ族の宗主ウサツヒコを神武天皇に協力するように説得したのはウズヒコとされている。
ウズヒコの出身地は諸説あるものの、古事記では吉備の国津神とされている。
ウズヒコが、ウサツヒコと神武天皇を取り持ったのが事実だとすれば、もともと、吉備と宇佐には、信頼関係で結ばれた交友関係が存在していたのかも知れない。
天孫を自称する神武天皇と、漁師ウズヒコでは、普通に考えれば、神武天皇の方がよほど説得力があるはずである。
しかし、伝承によると、ウサツヒコはウズヒコの説得を受けて、神武天皇に帰順することを決断している。
このことから、ウサツヒコとウズヒコには元から交友関係があり、強い信頼関係が存在したと考えるのが自然である。
【御洗水観世音】は、笹ヶ瀬川(遡ると足守川)の河口に位置しており、足守川の上流に向かうには、必ず通過する場所である。
しかし、浅瀬の海である為、潮の満ち引きでは、船が浅瀬で立ち往生するため、現地のガイドが必要な海域である。
速吸門という場所は、「潮の流れが速い」と広く解釈されているが、児島湾には該当する場所は存在しない。しかし、「潮の満ち引きが速い」と解釈すれば、まさに御洗水観世音の場所に当てはまる。
また、御洗水観世音の目と鼻の先、数十メートル南西には和田の宮と呼ばれる神社が存在する。かつては海だった時代には、ワダの浦と呼ばれていた場所である。
しかも、御洗水観世音を代々祀っていたのは、江戸時代の天保時代までは、神代から男系を守り、和田姓を名乗る漁師の家系だった。
また、足守川の上流は、古代より製鉄が栄えた地域であり、鉄器を手に入れたいなら、神武天皇にとって、必ず辿り着きたい場所だったはずである。
さて、2人の神が出会った場面を、あらためて見直したい。
神武天皇が足守川を遡ろうとして、おそらく御洗水観世音のあたりで立ち往生していたのかも知れない。
神武天皇が初めてさおねつひこを見た時、さおねつひこは、亀に乗って釣りをしていたという。普通に考えれば、深い海に浮かぶ亀に乗ることは不可能だが、御洗水観世音あたりの浅瀬なら十分に可能である。浅瀬から、澪(船が通れるように水深を深くした、海中の水路)に向かって釣り針を垂らしていたなら、ごく自然な風景といえる。
神武天皇は、さおねつひこの釣竿を掴んで、手繰り寄せ、さおねつひこを自分の船に乗せたという。さおねつひこにとっては、釣竿で神武天皇を釣り上げたわけだから、とんでもない釣果だった。また、
神武天皇にとっては、足守川を遡り、鉄器を手に入れるのに、欠かせない人物が協力者になった。
その後の史実として、足守川上流で神武天皇はタケミカヅチとフツヌシの御旗がはためくのを見た。そして、鉄剣を授かり、またさおねつひこを優秀な参謀として従えて、ヤマト平定を成功させた。
★「さおねつひこ」と「妹尾弁」
古事記によると「さおねつひこ」、日本書紀には「しいねつひこ」と言う名前が記載されている。
御洗水観世音の存在する岡山市南区妹尾の方言では、現地の人が「さお」と発音すると、他の地域の人には、「スォ」となまって聞こえる。
そのため、本来の意味としては、「竿根付彦(さおねつひこ)」。
すなわち、竿の根元にくっ付いて来た男前、が正しいと考えられる。
もしも、さおねつひこが妹尾地域の出身だったと仮定すると、「さおねつひこ」を妹尾方言で発音した際に、他郷の人びとには、「スォねつひこ」「しぃねつひこ」と聞こえていた可能性は充分に考えられる。
それが、「さおねつひこ」と「しいねつひこ」の二つの名前が伝承されている原因ではないかという、推測が成り立つ。
『備中妹尾 字観音寺
跡不見観音堂鎮座
御洗水観音菩薩 縁起』
2025年1月1日(令和7年)
光吉一雄 著
A4版22ページ冊子
ご希望の方 郵送いたします。おひとり様1冊限りでお願いいたします。
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中国銀行 妹尾支店(チュウゴクギンコウ セノオシテン)
普通預金 NO 1239323
跡不見観音寺護持会 光吉一雄
2025.1.1
備中妹尾郷 御洗水観音寺 護持会2025.1.1(令和7年)作成
著者 光吉一雄(15代当主)
佐藤亘
同前宏