西磯山(啓運山)観行院
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住所 岡山市南区妹尾1428
086-282-1762
本尊 釈迦如来佛(鬼子母神像)
宗派 日蓮宗
当代 清水隆慶 27世(当地に移転して)
前身 708年頃(和銅元年)観音堂
1170年頃(治承元年)観音寺
1631年(寛永8年3月)真言宗観音寺
山田村移転 日照41才
開山 1683年天和3年亥年妹尾に移転
日蓮宗に改宗 日照93才
施設 鬼子母神堂 明和2年1765年
伝承 ☆七日日(鬼子母神堂)
☆「同前姓」由来
☆妹尾郷百姓一揆の真実
☆文化13年1816年
「大覚大僧正作鬼子母神像」を
譲り受けたとの記録
御利益 鬼子母神堂でのご祈祷
子孫繁栄・安産・子宝
病気平癒・他
記
(1)観行院縁起
(2)和田家について
(3)幕末の政権移譲(戸川家から和田家へ)
(4)妹尾郷百姓一揆の真実
(5)同前姓の由来
(6)七日日と観行院
(7)歳時記
(8)吉祥果(ざくろ)会
【永代供養について】
⑴ 観行院縁起
奈良時代の西暦700年頃、元明天皇から下賜された聖徳太子作と伝わる「観音像」を祀る一宇のお堂が起源。当時、船着き場だった場所に建てられた。
其の後、1170年頃、妹尾兼康によって観音像を本尊とする備中妹尾観音寺が、和田大坊(鎌倉時代に廃寺?調査中)に作られた。当初は真言宗の寺であったと言い伝えられている。
その後、時代の変化と共に興亡を繰り返したのち、江戸時代以降は、1600年頃より領主となった戸川達安の宗教政策の影響を受けて、日蓮宗に改宗して観行院と名称を変更する。
またその際に本尊であった観音像は和田家の敷地内に移設し、祀られることになった。しかし天保年間に起きた妹尾郷百姓一揆の後に、和田家が、この観音像を祀ることが出来なくなる事情が生じ現在に至る。
① 妹尾の歴史伝承は、吉備津彦神社の末社である温羅神社、さらにその末社である十柱(とはしら)神社の祭神「和田叔奈麿」「山田日芸丸」「栗坂豊玉臣」の記載が最も古い文字記録となる。
この十柱の祭神は、「吉備海部直祖」「山田日芸丸」「和田叔奈麿」「針間字自可直」「夜目山主」「栗坂富玉臣」「忍海直祖」「片岡健命」「八枝麿」「夜目丸」である。
名前から推定すると、笹ヶ瀬川流域及び朝鮮航路、播磨ヤマトを結ぶ海路沿いを拠点とする人物達と予想される。
この十柱の内、「和田叔奈麿」「山田日芸丸」「栗坂豊玉臣」と、笹ヶ瀬川下流の西岸の集落が、3柱を占めている。まだこの時代には、「妹尾」「瀬尾」の地名は見られない。温羅の時代には「山田」「和田」「栗坂」が妹尾周辺を指し示す地名であったと考えられる。
② 次に古い伝承は、和田の宮と西ノ宮である。和田の漁民が、いさせりひこ(吉備津彦)の海難救助を行ったことが、亀の逸話を通して語られる。また、いさせりひこと共に早島箕島の海賊を討ち果たしたとの伝承が、それぞれの神社に伝承されている。実際に児島湾の北側、早島沿岸までの漁業権は妹尾漁民が独占していた。また、その代償として、児島湾の北側の海難救助を担い、それが江戸時代末期、児島湾埋め立てまで続いた。
③ 西暦708年頃、元明天皇(女性天皇 在位 707〈慶運4年〉~715〈和銅8年〉平城京遷都・風土記編纂の詔勅・和銅開寶の鋳造の業績)の時代。筑紫の貢ぎ船の海難救助を行い、元明天皇から聖徳太子作の観音像が、妹尾に贈られる。妹尾町内の陣西に跡不見(あとみず)観音堂として、一宇の堂に祀られる。妹尾の漁業権が、大和朝廷から認められている証拠であり、同時に海難救助の義務を負う証拠でもある。
同地は空撮写真より、明らかに人工的に作られた船着場だったと推測される。
(Googleマップ参照)
④ 平安時代末期の平家の武将である妹尾兼康(平清盛近仕。妹尾郷受領〈1126~1183〉)が、観音像を本尊として和田大坊に巨大な寺院を建設し、観音寺と号した。すでに同地は気候変動によって海ではなくなったため、跡不見観音は、御洗水観世音(ごせんすいかんぜおん)と呼ばれた。
⑤ 平氏滅亡後、鎌倉時代になり、戦乱が終わると、後世に伝承を残すために建久3年 観音寺の縁起が作られる。
⑥ その後、観音像は和田家により保存され、観音寺は再興と衰退を繰り返す。
⑦ 豊臣秀吉が天下統一し、平和な時代が訪れたことにより、上寺(住田)に真言宗観音寺が再興される。
⑧ 徳川家の天下となり、戸川達安が領主となる。達安は領内の日蓮宗以外の寺院をすべて山田村に移転させる。観音寺は、山田村に移転する。
⑨ 戸川本家が断絶。久世重之が領主になり、真言宗への弾圧がなくなり、山田村から観音寺を妹尾に移設する計画が起きる。まずは上寺(住田)に移転し、現在地への移転準備を行った。
⑩ 移転準備中に、久世重之は、転封。再び戸川の分家が妹尾を支配することになる。観音寺は本尊を分離して、日蓮宗に改宗、観行院として 現在地に移転。観音像は和田家が敷地内に祀った。観行院古文書により、創立期の協力者は少なくとも5家が判明している。
☆和田家(妹尾。江戸時代において、「同前」の屋号を使用する。幕末に他家に和田姓と網元の権利を譲る。明治以降は「同前」姓を用いている。)
☆清水家(妹尾。江戸時代を通じて、「同前」の屋号を使用する)
☆中島家(妹尾。江戸時代を通じて、「同前」の屋号を使用する)
☆笠石家(山田村)☆金森家(山田村)
明治以降は、和田を除いて、元々の苗字を使っている。和田家のみ、「同前」の屋号を苗字として、現在まで使用している。
それぞれの名前から、妹尾においての役割は、次のことが予想される。
「和田」漁業権を吉備津彦より認められて、海上保安業務に携わる象徴としての家系
「清水」近隣地域の中でも、特に清浄な飲料水である「つちえの井戸」を守る家系。
「中島」児島湾に点在する島々を、漁業や海難救助の拠点として整備する家系。
「笠石」山田村の米作りを管理する家系。温羅神社の末社である十柱神社の祭神、山田日芸丸の末裔であり、山田村の象徴であった鳥帽子岩と先祖を祀り守る家系。
「金森」(鍾場)古代吉備国の象徴である鉄器を製造、管理していた可能性のある家系。
観行院設立後
真言宗観音寺は、日蓮宗に改宗する際に、観行院と名前を改めて、盛隆寺の末寺となった。現在地は、すべて和田家が私有地を提供したとされる。(「妹尾町の歴史」より)
真言宗時代に本尊だった観音像は和田家の敷地内で祀ることになった。
⑵ 和田家について
妹尾において和田家は、江戸時代末期までは、必ず一軒のみしか存在しなかった。
この妹尾和田家は、和田の宮の祭神「和田叔奈麿」の男系を2000年近くにわたり守ってきた家系である。江戸時代末期までは、妹尾和田家には
「必ず血縁の男児が跡を継ぐ」
「和田家は一軒のみしか存在しない」
という決まりが存在した。
これは、和田一族が一大勢力に発展することが無いようにするための工夫であった。次男、三男は、他家に養子になるか、観行院、善立院の僧侶になった。
和田叔奈麿の末裔の存在は、妹尾漁民の漁業権を守るために、妹尾にとって必要不可欠だった。児島湾の澪「みお」(浅瀬の海の中にあり、船が通るための水深が深くなっている水路)を境に、笹ケ瀬川から西、早島までが、妹尾漁民の独占的な漁場として、それぞれの時代の為政者から認められていた。
その根拠として、現代に残る史跡として、
「御前神社(西の宮)」
「跡不見観音(あとみずかんのん)」
「栗村神社(和田の宮)」
が、妹尾に現存する。
① 吉備津彦の海難救助を行った証拠となる御前神社(西の宮)。
② 筑紫の貢ぎ船を守り元明天皇から下賜された聖徳太子作の観音像と跡不見観音堂。
③ 吉備津彦とその妻を饗応した和田叔奈麿と竹丘姫(たけすなひめ)の屋敷跡である和田の宮である。
妹尾漁民は、和田家を代表として、児島湾の北側の海上の安全を守り、事故や災害時には救援活動の責任を負う。その見返りとして、早島までの漁業権を保障されてきた。
まだ戦国時代だったころ、のちの妹尾領主となる戸川達安(みちやす)は9歳の頃に、父の戸川秀安(当時は富川秀安)が妹尾の対岸の常山城主として赴任した。
その当時は、常山城主戸川家と妹尾漁民は、同じ毛利家の支配地域だった。当然交流もあっただろうし、救助活動の合同訓練も行っていたかもしれない。しかし、その3年後には、戸川家の主君である宇喜多氏が毛利側から織田信長に寝返った。そのために、常山城主戸川達安と妹尾漁民たちは、一転、敵同士の関係になってしまった。
また、豊臣秀吉の備中高松城の水攻めを記録した古文書である「備中兵乱記」によれば、備中高松城を守る最前線の兵士の中に、「和田三郎兵衛」の名前があり、妹尾和田家の人物と推定される。また、この時に局地戦で実際に刃を交わした相手は、のちの妹尾領主となる16歳の戸川達安だった。
「備中兵乱記」によれば、和田三郎兵衛の部隊は、戸川達安を退却させたと記録が残っている。
江戸時代になると、土砂の堆積により、児島が倉敷と陸続きとなり、半島となった。
また、児島湾は新田開発の対象となり、埋め立て事業の計画が幾度もたてられることになっていく。
和田家と妹尾漁民は、江戸幕府に仲裁を求めて、繰り返して訴訟することで、漁場の埋め立てに抵抗していた。100年余りも、妹尾漁民は児島湾埋め立てに抵抗していたが、それまでにも土砂の流入などで、自然と海は浅くなっていた。幕末になり とうとう、児島湾の本格的な埋め立てが始まり、妹尾から海は消えることとなった。
妹尾から海が姿を消し、妹尾漁民が海難事故の救援義務もなくなることで、和田家の歴史的な役割は小さくなっていく。そして、黒船来航、開国と時代は変化して行く。
ちなみに、観行院の過去帳には、「和田」の名前は全く存在しない。「和田家」の人物は徹底して全て「同前」の屋号で記録されている。「和田家」以外にも「同前」の屋号を使う家系が存在しているが、備中兵乱記によると、戸川達安の部隊と戦った和田三郎兵衛と同じ部隊の兵士名(和田・清水・中嶋)と一致している。
(3)妹尾における政権移譲(戸川家から和田家へ)
江戸時代、妹尾は旗本戸川家の支配下にあった。旗本とは、徳川将軍家の直属の武士である。出世をするためには、戦時であれば手柄をあげる必要があるが、平和な時代では、多額のわいろや寄付金を用意する必要があった。
幕末に黒船が来航して、江戸幕府に開国を迫ったとき、多くの武士は討幕の動きをみせた。逆に旗本たちの出世競争は以前よりも熾烈さが弱まり、かつては手の届かなかった高い地位が、頑張れば手に入るかもしれない。そう感じさせるような状況になっていた。
妹尾戸川家7代目の戸川達本(助次郎)は、若いうちから吉原遊郭に通い詰めて、国許の妹尾の財政を圧迫した。結果的に一人の家老が辞職して、足軽が御用商人を狙撃未遂するといった事件に発展した。また、その数年後には、妹尾在地の代官が、不可解な増税を、繰り返し領民に求めるようになっていく。
背景として、戸川達本の幕府内での出世争いの軍資金を、どんな無理をしても集めるようにとの極秘命令があったと考えられる。
妹尾漁民は一計を案じた。吉備津彦の時代より、児島湾の安全を守り、また戦国時代には戸川達安を撃退した妹尾漁民たちが、自分たちのために再興したのが、観行院である。その、観行院(鬼子母神堂)が一揆の作戦会議の場所となった。
「妹尾郷百姓一揆」と呼ばれたこの事件は、事実上、妹尾の支配者が「戸川達本」から「和田源治(次)兵衛」に交代する出来事となった。
幕府内での出世を目指して、どうしても軍資金の欲しい妹尾領主戸川達本に対して、海運業で大きな富を築いた橋本(嶌屋)源治兵衛(のちの和田源次兵衛)を仲介するために、この「妹尾郷百姓一揆」は計画実行され、見事に成功した。
⑷ 妹尾郷百姓一揆(1844年天保15年)の真実
欧米から開国を迫られ、対応に苦慮する江戸幕府に対して、早くから見切りをつけて、独自の路線を模索する先見の明をもつ大名や旗本も存在した。しかし、幕府内での出世にこだわり、出世に必要な資金を得るために、無理な課税を繰り返す旗本も存在した。
妹尾領主の戸川助次郎もその一人だった。
戸川助次郎の悪政に対して、妹尾漁民たちは、主に観行院(鬼子母神堂)にて法事を装い、対策を相談しあった。
実際に行われた一揆を時系列で整理すると
① まずは、繰り返す重税が納められないので、やむを得ず他領に出稼ぎに行く必要があると、大人数で関所に押しかける。
② 関所で断られることは想定済みで、その際に、重税に苦しんでいること、なんとかして、税を納めようと努力していることを、他領にアピールする。
③ 出稼ぎを断られたことで、税を納める望みが無くなったと、窮状を訴える訴訟を、隣接する他領の代官所に提出する。その際に、すべての悪政は、聡明な領主をないがしろにする、在地の代官である屋吹の一存で行われたものと決めつけた文面とする。
もちろん、この代官の屋吹も一揆の指導者の一人である。
密談の舞台になった観行院には屋吹の寄贈した、石灯篭と、鬼子母神堂が存在する。観行院の有力な支援者である屋吹に知られずに、観行院で密談を行うことは不可能である。
④ この妹尾領民による越訴の件を、屋吹が江戸の領主に報告するために妹尾を出発するタイミングで、屋吹家と他数件の屋敷を、大人数で打ち壊す。
⑤ 鎮圧のための部隊が到着するまえに、一揆は解散する。
全ては、領主戸川助次郎とある人物を代官の屋吹が仲介することが、一揆の真の目的だった。
その真実の作戦を、順を追って整理すると
① 重税を納める資金を稼ぐために他領に押しかけて騒動を起こす。
② その騒動を江戸の領主に報告する必要を生じさせる。
③ 領主にお目通りの叶う代官屋吹が、詳細の報告に江戸に向かう。領主と面会の際に、重税を課す政策よりも、豪商に借り入れる案を提案する。
④ 領主が提案を受け入れなかった可能性を考慮して、その間に屋吹の屋敷を打ち壊す。
⑤ 領主が重税策をあきらめざるを得ない状況をつくり、豪商嶌屋源治兵衛(「嶌屋」は屋号、姓は橋本)と、領主戸川助次郎の面会を実現させる。
⑥ 嶌屋源治兵衛が、領主のパトロンとなり、幕府内の出世を援助する。そのかわり、重税策を見直し、また嶌屋の経済活動を支援する。
観行院の檀家であり、海運業で莫大な利益を上げて富を築いた嶌屋源治兵衛という人物がいた。
気候変動と埋め立てによって、海が失われつつあった妹尾において、網元であった和田家から余った船を譲り受けて、文化文政年間に海運業を始めたと伝承されている。
それまでは、名字帯刀を許されていなかったが、妹尾郷百姓一揆の後に、嶌屋源治兵衛は妹尾大庄屋となり、和田源次兵衛と名前を改称した。
状況から考えると、名字は領主が与えたもの。【源「治」兵衛】から【源「次」兵衛】に変わったのは、領主戸川助次郎から、「次」の字を許されたと考えて間違いない。
そして、同時期に戸川助次郎は幕府内で異例の出世を遂げた。
妹尾郷百姓一揆を伝える資料にも、一揆の後に、領主が処分を受けることがあっても、逆にどんどん出世するのはかなり不自然であり不思議なことだと指摘されている。
この戸川助次郎の異例の出世は、嶌屋源治兵衛が和田源次兵衛に名前が変わったことと、表裏一体であり、和田源次兵衛が、戸川助次郎の幕府内での出世に必要な資金を1人で調達した証拠だと言える。
この和田源次兵衛は、結果的に妹尾領民を重税から救い、また領主の幕府内での出世を実現し、また海の埋め立てによって仕事を失った領民たちの働く場所を新たに提供した。その後、戸川助次郎の近習医師にとりたてられている。その子孫も代々和田の名を継承している。
事実上、戸川助次郎から、和田源次兵衛に妹尾の支配者が交代した出来事となった。
戸川助次郎の墓所は盛隆寺に、和田源次兵衛の墓地は観行院に現存する。
本来の和田家の血統は、妹尾郷百姓一揆の起きたころ、成人男性はみな他界しており、幼い梅吉1人のみとなっていた。海が埋め立てられたことにより、本来なら和田家が持っていた漁業利権や海上保安義務は失われていた。残る和田家の役割である観行院の運営は、和田源次兵衛がその役割を引き継いだ。観音像は、信仰の特に篤かった光吉家に引き継がれた。
妹尾においては、「和田姓」は、吉備津彦より漁業権を保障され、海上保安義務を守る、妹尾漁民を代表する網元の家系の名前である。
しかし、この時代には、海は埋め立てられ、妹尾の漁業は衰退して、和田の本来の家系の男子は、幼い梅吉1人となっていた。
そこで、戸川助次郎より「和田姓」を許された和田源治兵衛は、自分の祖父である橋本久治郎を、同前久治郎に改名させた。
橋本久治郎の妻は同前家から嫁いでいたため、男系ではなくなるが、古来の和田家とは、縁が続いていることになる。(2千年以上続く集落である妹尾では、住む人すべての人が何らかの血縁関係にあるはずなので、誰もがみんな和田叔奈麿と竹丘姫(たけすなひめ)の血縁者である。)
戸川助次郎から和田姓を許された源次兵衛は、ただの「和田」では無く、妹尾に代々続いていた、網元の「和田家」の末裔と称するために、祖父の久治郎を同前姓に改名した。それによって、同前久治郎のもう一つの子孫である橋本兵右衛門の家系も、和田姓を名乗る大義名分ができた。
兵衛門の家系は、明治以後は和田を名乗り、郷土の偉人である和田豊太を輩出している。この和田豊太の石碑は、観行院の敷地内にかなり大きなものが作られており、現存している。
本来の和田家は、自分たちの墓石も残していない。妹尾全体のために、墓地を少しでも広く残すためでもあった。しかし、源治兵衛に「和田姓」を譲る際に、妹尾の発展に貢献してもらうための御礼として、新しい和田家の墓地として広い敷地を用意し、今に残る。
また、本来の和田家は、自分たちを顕彰する碑を残すことは無かったが、時代の流行などもあり、和田豊太の石碑が、現在まで残されている。
妹尾の歴史的な名前のルール
和田→同前(隠し名)→和田。和田を名乗るためには、同前からでないと正当性を欠くことになる。
観行院の墓地にある、同前久治郎の墓碑は「道善久治郎」となっていて、「同前」ではない。道善は、「みちよし」とも読め、「光吉(みつよし)」とほとんど聞き分けるのが難しい。筑紫の那珂川には、「道善寺(どうぜんじ)」の地名が現存する。
橋本家が和田家を継承した詳しいいきさつは、妹尾の住民はよく知っており、本当に名前を奪うつもりはなく、あくまで、他領の住民に対して見栄を張る程度の効果を期待したものだった。他領の家系との縁組や、商売などには、充分に効果があったはずである。
そのため、妹尾の古い家では、本当の和田の血統は「梅吉」の子孫だけであることを伝承しており、また現在の和田家は、幕末に橋本家が同前の屋号を使って和田となったと伝承している。
この「梅吉」は成長して結婚し、3人の男子に恵まれて、それぞれが成人する。この梅吉の子孫は、明治時代になり、すべての国民が苗字を許された際に「和田」に戻ることなく、「同前」を苗字に選び、今も男系は継承されている。(「同前」姓を選んだ家系は他にも数家あり、それぞれに親戚関係はない。)
嶌屋源治兵衛が同前の屋号を使って和田を名乗り、網元の権利を継承、観行院の運営も引き継いだ。その際に、それまで和田家の敷地内に祀られていた観音像は、特に信仰の篤かった光吉家が引き継いでいる。光吉家は私財を投じて観音堂を整備して、跡不見観音堂鎮座「洗水観世音菩薩」として祀り今に残っている。
また、光吉家が保管する江戸時代の文書には、妹尾漁民が児島湾の北側、早島までの漁場を独占する漁業権を有し、また古来より海の安全を守ってきたことを示す内容が記載されている。
資料上では、完全な悪役とされている屋吹は、実際は領民からは深く慕われていた。当然、一揆の後に処分を受けることなく、領主からますます信頼されるようになっていった。明治時代には行き場のない晩年の戸川助次郎が、屋吹氏を頼って、妹尾に定住し、生活の援助を受けたと伝わっている。
観行院鬼子母神堂右翼、向かって左翼に「寄進灯篭」(寛政十一年(1800年)屋冨木氏)が現存する。
⑸ 同前姓の由来
江戸時代に、観行院の檀家で同前の屋号を使っていた家系は、明治以降は「和田」「清水」「中島」「同前」にそれぞれ分かれた。明治以降は、これらとは別に新しく同前を名乗る家系が現れた。観行院の檀家以外にも、当然、備中高松城の戦いにおいて、清水宗治とともに籠城したものは多くいた。
備中高松城で籠城した者たちの子孫が、観行院以外の檀家に存在していて、明治期に「同前姓」を選択した可能性は十分に考えられる。
【家紋でたどる明治以降の同前家の謎】
墓地調査による家紋分類は、
①抱き茗荷
②丸に木瓜(もっこう)
③亀甲
④酢漿(かたばみ)以上の4つ。
① 抱き茗荷の同前(2家系)
ⅰ 江戸時代以前から「和田」を名乗り、幕末に嶌屋に「和田」の名前を譲った同前梅吉の子孫。
ⅱ 明治時代に、和田家の政治基盤を引き継ぎ県会議員となった同前才治の家系。
② 丸に木瓜の同前
明治以降に不受布施派を信仰したとされる記録が残る、同前鹿造の家系。
③ 亀甲の同前
穂田屋の屋号を持つ同前家。戦国時代の豪族、庄氏、また穂井田家との関係が想像される家系。妹尾には、他家に同じ家紋はない。天正10年備中高松城の戦いにおいて、清水宗治と共に籠城して戦った穂田氏の末裔と考えられる。
④ 酢漿(かたばみ)の同前
妹尾には墓石は一基のみ。岡山城を築城した宇喜多氏の家紋が剣酢漿。酢漿の家紋も妹尾には一基のみ。
宇喜多氏が、「剣を捨てて帰農した」の意にも解釈できる。
もともと、「同前」は、天正10年(1582年) の備中高松城の戦いにおいて、清水宗治軍一同を意味する言葉であったが、江戸時代の250年の間に、妹尾の名家だった「和田家」が清水家と中島家と共同で「隠し名」として使用する【屋号】となっていた。
明治以降に戸川家の支配が解かれたことにより「同前」の【屋号】は使われなくなるはずだった。
明治になり、本当の姓を使う事を何らかの理由ではばかられ、しかも先祖を誇りに思う家系のいくつかが、隠し名を使っていることを明らかにする意味で「同前姓」を選んだ。
江戸時代の250年のうちに、「同前」の屋号の本来の意味は薄まり、「誇り高い家系が訳あって本名を隠す名前」としての意味が強まった。そのため、現在存在する同前家は、「自分たちは訳あって本当の姓を名乗っていない」という意思表示する苗字となっている。そして、現在に存在する同前家は①同前梅吉子孫②同前才治系③同前鹿造系④穂田屋家⑤酢漿家紋(宇喜多氏の末裔か)の少なくとも5家が判明している。他にもいるかもしれない。
屋号について
観行院古文書によると、江戸時代においては、観行院檀家衆で使用されていた「同前」以外の【屋号】として、「大前」「中前」が存在している。また少なくとも江戸時代の間に、この3家は縁組している。
明治以降では、妹尾には「大前」「中前」の姓は存在せず、現代ではすでに使われなくなっている。
⑹ 七日日と観行院(鬼子母神堂)
妹尾のお祭りは夏の「なのかび」と冬の「お講」の二つがあります。
このうちの「なのかび」は、観行院の鬼子母神の縁日であり、妹尾の子供の幸せを願うお祭りです。
妹尾は伝統的に子ども世代の将来を大切に考える地域です。特に、教育に関しては全国的にも珍しいとされる、庶民のための教育機関の「矢吹学舎」(元亀元年1570年から。今寺・上寺・和田・白浜)が古くから栄えていました。
妹尾の子供の守り神は、少なくとも3箇所に存在します。一つが「観行院の鬼子母神」、「和田大坊の荒神様」「仁王町の弁天様」です。日本中で、子供の神様といえば、ふつうは「お地蔵さま」が一番に挙がります。しかし、妹尾には、お地蔵様は一体も存在しません。その代わりに子供たちを見守ってくれるのが「鬼子母神」「荒神さま」「弁天さま」です。
その理由は、日蓮宗という宗派に「お地蔵様」が認められていなかったからです。江戸時代に領主となった戸川達安は熱烈な日蓮宗の信者であり、そのために元々の主君と不仲になり、結果的に失業した経験のある武将です。
妹尾では、江戸時代までは真言宗の寺院が少なくとも、観音寺、盛隆寺、善性寺の3つが存在していました。しかし、戸川達安の宗教政策によって、観音寺は山田村に移転。盛隆寺は日蓮宗に改宗、善性寺は善立院と改称して、日蓮宗に改宗、盛隆寺の末社になりました。その際に、妹尾のあちこちにいたはずのお地蔵様は姿を消したと考えられます。
しかし、子供たちの幸せな未来を願う妹尾の住民は、お地蔵様を他の神様に変身させました。それが、「鬼子母神」「荒神さま」「弁天さま」です。
明和2年(1765年)に、観行院に鬼子母神堂が多くの寄付者によってつくられました。これは、妹尾の子供たちを守護することを誓うためです。また、鬼子母神堂には、鬼子母神を祀りました。
そして年に一度の鬼子母神の縁日である(旧暦7月7日)現在は8月7日に、妹尾の子供たちに無料で菓子を振る舞うお祭りとして、法要が営まれています。盛隆寺の境内で、盛大な夏祭りが開催され、妹尾の人には、昔懐かしい思い出がたくさんあるお祭りです。その実は、観行院にある鬼子母神堂が、そのお祭りの主役なのです。コロナの禍の間は、菓子配布を中断していましたが、令和6年より、再開しています。次の七日日も、これからずっと、お菓子を配布していく予定です。
鬼子母神以外の子供の神様
「弁天さま」
こちらも子供たちに無料でお菓子を配布する神様です。
「荒神さま」
こちらは、町内会で子供の神様と信仰されている神様です。つちえの井戸の正面にあります。出産時に産湯として、古代より清浄な「つちえの井戸」の水は妹尾だけでなく、遠方からも、その水を求めるものが多かったようです。
貴重な井戸水ですが、産湯として求めるものがあった場合には、他村のものでも分け与えたようです。
伝統というものは、受け継がれていくものです。私たちが子ども世代を大切に思うのは、きっと知らないうちに私たちが子ども時代に大切にされてきたからでしょう。
そして、現代の子供たちが、おとなになったとき、また次の世代を大切に思えるように。
妹尾のこの伝統が末永く続くように願いをこめて、観行院では七日日にお菓子を毎年、無料配布を続けます。
【参考】インドの女神で、梵名マハーマーユーリーと呼ばれる孔雀明王や、梵名ハーリティー=訶梨帝母(カリテイモ)とよばれる鬼子母(きしも)神は「吉祥果」と呼ばれる果物を持っています。
吉祥果はザクロ(石榴)に比定されますが、ザクロはペルシャ・西アジア原産とされ、果実の中には、熟れると宝石のように美しいたくさんの小さな粒があり、その一つ一つに種子が入っています。
このことから、ザクロはヒンズー教徒の聖木とされ、花や実は古くから子孫繁栄をあらわす縁起のよい果物、さらには魔を払う果実として、ヒンズーの神々への供物とされてきたとのことです。
⑺ 歳時記 令和7年2025年
03月20日 春のお彼岸(春分の日)経木配布
09月22日 秋のお彼岸(秋分の日)経木配布
08月07日 鬼子母神祭(七夕 七日日縁日)18時~21時当日参詣の中学生までの児童に一人1点 お菓子袋を配布(500袋限定)
08月15日 お盆 施餓鬼 経木配布
08月16日 13:00 盛隆寺法要
11月22日 お講
夜 お講の行列
檀家様には、お講の「お供え」を お願いします。
12月 戸守経 お守り経木 暦 配布
護持会
護持(会)=檀家のことであり、菩提寺に対する義務でもあります。お寺の行事のお手伝い(勤労奉仕)や、費用負担(御布施)などのことです。特に、本山に納める護持会費は必須です。
⑻ 鬼子母神堂 吉祥果(ざくろ)会
ざくろ会の一番の行事は、毎年8月7日(七夕)「七日日」の鬼子母神様の祀りです。
その折に、「中学生までの児童」に「お菓子の袋」を配布して、地域の子供たちの 健やかな成長を願います。また、それを祈願するお祭りです。ざくろ会は、護持会をより強力(信仰心の強い)に推進するために設立しました。 特に、観行院の鬼子母神様をより敬虔にお祀りし、矢吹学舎の気風を引き継ぎ、妹尾の子供たちの健やかな成長を願う会にします。鋭意、会員を募集いたします。会員様は、当寺の檀家である必要はありません。「妹尾地域及び近隣の子供達の健やかな成長を願う方」お待ちしています。
【永代供養について】
お問合せ下さい。あらゆるご相談に誠心誠意お応えします。檀家様でなくても大丈夫です。すべてのご宗派様大丈夫です。
令和6年(2024年)8月7日
備中 妹尾 観行院 吉祥果会 清水観隆
2025年版 観行院檀家様(護持会)限り
令和06年1月04日 制定
令和06年10月25日 改定